2012年12月11日火曜日

価値を他人に共有すること

あるモノの価値は、評価する人によってかわる。2人だった場合、相手の趣向が加わり、多人数になった場合、より抽象性がますのだろう。
個人の思考によっているかぎり、その価値を考える人は何を評価するのだろうと自分が考えているので極論では、自分が最高、自分が何をやっても相手が喜ぶと確信してしまっているひとにとっては、相手の事象に対しても自分での価値に変換されるだろう。

なので、より客観的に事象を共有するためには、「モノサシ」という価値をはかるものが必要になってくる。
ただ、評価するものが、単純な長さ、重さならともかく、主観が入ってきそうなかっこいい、かわいいとかを全体に共有する値は、難しい。

最近、洋服を一定の水準にしようと考えた。しかし自分は、基準になる知識もなかったので、ある程度、「お金」が高いモノを選んだ。

自分にセンスに自信がある人は、どんなものを着てもすばらいと胸をはって言えるのだろうが、第三者に説明をしようとしたときに、ここに、青を入れることによってしまるといって理解できないひともいる。
しかし、この服は、10万円したといった場合、結構な価値があるんだねと感じてもらえる。

これは、見た目という意味では、何もみたしていないかもしれないが、周りにたいして洋服の価値について一定の説明をしている。

これは、仕事にもいえるんじゃないかと考えた。
出来上がりが最高なものを目指す考え方(主観)と
プロジェクトを管理(客観)

プロジェクトを進めるにあたって、作る人間とは別に、経営者や戦略を考えるひとによっての価値は、
モノ自体の価値はわからないので、何らかの価値を示さなくてはならない。
それは、時間やお金なのだ。それらをかけると一定の水準のものが生まれると信じられているし、コストに直結するので、判断が単純化する。

価値を他人と共有することは、他人が持っているだろうモノサシではからなくてはいけないので、
身長を体重計ではかるというようなことが常に生じているのではと考えてしまったのだ。